

政治家が大嫌いだった
わたしは政治家が大嫌いでした。
まだ、学生でありましたころ、ようやく社会の状況などに気をかけるようになり、また、ニュースにも関心を持って目や耳を傾けていました。メディアの取り上げ方というのもあるのかもしれませんが、ニュースになるのは汚職やごまかしの言葉ばかり。政治家とは汚いものだという印象が強くわたしの中にありました。なぜこの人達が必要なのだろうとまで思っていました。
あるとき、わたしの中に転機が訪れました。埼玉県で暮らしていたころ、あるニュースを見たのです。
それは埼玉県大宮市(現さいたま市大宮区)で50歳代の夫婦が心中したというニュースです。
心中というニュースだけでは特にめずらしいものではありませんでした。人生に疲れた、と言って、配偶者や子供たちを道連れにして世を去る無理心中などが頻繁に起こっていた時期でもありました。
しかし、その大宮の件は普段のニュースと違いました。
遺書がニュースの文面に掲載されていたのです。
内容はこんな感じでした。
「これまで頑張ってまいりましたが、もうどうにもできないところまできました。夫婦で話し合い、明日死ぬことにしました。……」
そのあと、まだ文面は続きます。
わたしは、無理心中に関しては悔んで事実を知るにとどまっていました。首謀者が自分が死ぬだけではなく、周りの人を無理やりに巻き込む。道連れになった家族は、いわば生きようとする意志に反して突然降りかかった殺人事件の被害者です。
しかし、この大宮の件についてはあらゆるものを考えてしまいました。
この夫婦はおそらく苦しい中でも正直に頑張ってきたのだろう…。
共に死ぬと決めたのは、それだけお互いの中に信頼が深かったからなのだろう…。
明日死ぬという段階で、この二人は何を話しながら最後の晩御飯を食べたのだろう。
二人の想い出を語りあったのだろうか…。
楽しかったのかな。今は苦しくても、きっと楽しかった頃の想い出がたくさん思いだされていたに違いない。
その頃と今を比較してどんなふうに感じていたのだろう。
世の中には悪いことをしてふんぞりかえって生きている人もいる。
努力して、正直に生きている人がなぜこのような非業の死をとげなければならない…?
こんな世の中にしたのは誰だ…?
政治家か…!!?…
感情がこみあげてきました。概ね怒りと悲しみの感情です。
政治家が嫌いであるならば、政治家が作り上げた社会が気に入らないのであれば、自分がその政治家になって、社会を作り上げればいい。
努力して、正直に生き、日々健闘している人が報われる社会にすればいい。
そう思いました。
政治家とは
現在日本全国にいる政治家の中には、地盤が安定しているために、特に何をするでもなく、政治家という立場にある人がいます。
使命感に鈍り、ただその立場にあることをのみ喜んでいるような者は、いらんのです。
日常の利益、保身に駆られ、信念を見失った者はもはや政治家ではありません。
わたしの中の政治家像を述べます。
政治家を志した者は、自らをかえりみず、自分が生きる社会全体の発展にとってなにが有用なのかを考慮実行し、以てそれを 人生の全て とする者のことを言います。
わたしはそう信じています。